南海本線 岸和田駅から15分ほど歩くと岸和田城に着きます.岸和田城には,「八陣の庭」という枯山水の庭園があります.1953年に築造され,2014年に国の名勝に指定されています.経年変化による景石の劣化が深刻化してきたため,岸和田市教育委員会の主導でそれらの補修が実施されることになり,2018年から2023年までの5年間,岩石学の専門家として協力させていただきました.庭園に関しては全くの素人ですが,岩石学の視点からみると興味深いことが多々ありました.ここでは,主に岩石学の立場から「八陣の庭」を紹介させていただきます.
天守閣と八陣の庭
天守閣から見た八陣の庭の全景
[八陣の庭とは]
岸和田城には,重森三玲氏の作になる八陣の庭があります.重森・重森(1972)に,八陣の庭の作庭に至るまでの経緯,作庭のねらい,そのために意図・注力した点等の詳細が書かれています.それによると,岸和田市では,岸和田城の二ノ丸跡の堀を一部埋めて児童遊園地を作る計画があったものの,本丸に庭園をつくることによって城郭を永遠に保存すべき,との重森氏の提案を受け八陣の庭の築造に至ったとあります.作庭にあたって,「岸和田城跡を永遠に保存するために築造する関係から,傑出したものを築造する」,「永遠に庭園が保存されなければならない関係から,永遠に保存の出来る設計が第一」,「将来再建される天守閣からの俯瞰,さらには飛行機やヘリコプターの発達する時代となるであろうから,上空から俯瞰的観賞を意図すべきであり,従来の庭園史上にない次元を進めて作庭設計すべきであることを研究の課題とし,‥‥」などの記述があり,恒久的な保存に注力された氏の意気込みがひしひしと伝わってくるように感じられます.
庭園を築造するにあたって,諸葛孔明の八陣法がそのテーマとして採用されています.重森・重森(1972)では,「本来八陣法は,的を攻める陣形ではなく,平和確立のために外敵から守る陣形であり,平和を祈願とする本来の意味を構成している.作為の上に全庭石組を通じて,平和共存を内容とする技法を駆使したものであることを付記する.」と書かれています.
孔明の八陣法の詳細を知るための資料は残されていません.中国・唐の太宗と李靖との対話の形で書かれた中国の兵法書「李衛公問対」では,太宗が孔明の天地風雲,竜虎鳥蛇の八陣の意味を問い,それに対して李靖は,古人は,八陣法の詳細を秘蔵し,その詳細を隠すために8つの名前をつくっただけ,後代のものがそれを誤って伝えた,との主旨の返答をしたと伝えています.もっともらしい話のようにも思われます.八陣の庭と孔明の八陣法との関係については丹羽(1959)の批判的意見,それに対する田中(1971)の詳細な論説があります.八陣の庭と孔明の八陣法との関係を注視しその真偽を問うことは,田中(1971)で述べられてもいるように私には意味のないことのように思われます.八陣の庭にたたずむと,いつも無限に広がる静寂感の中で清んだ透明な空気を感じ,心の安まりを覚えます.まるで,「永遠」,「平和共存」という,重森氏が作庭時にこめられた強い思いが伝わってくるようです.重森・重森(1972)では,三重の石垣線による地割りに言及したくだりで,「岸和田城城跡を保存する意図によって,永遠の人々の観賞の為に,天守からの俯瞰と,更に又上空からの俯瞰を意図した構成であった.これは従って,従来の庭園には全く見られない私独自の創作によるものであった.」と書かれています.八陣の庭は,諸葛孔明の八陣法をヒントに,「永遠」,「平和」のイメージを凝縮し発展させた,まさに重森ワールドを象徴する庭園であるといえるでしょう.
[景石と石垣線]
岩石には,大きく分けて堆積岩,火成岩,変成岩があります.堆積岩は,砂や泥などの砕屑物や生物の遺骸が厚く積み重なって固結してでき,火成岩はマグマが冷えて固まってできます.変成岩は,既存の岩石が,それができたときと違う温度と圧力条件下におかれてできた岩石です.堆積岩や火成岩と違って,できるまでには数十万年〜数百万年という大変長い時間がかかります.八陣の庭の景石には,すべて変成岩が用いられています.
八陣の庭の景石を選定するにあたり,重森・重森(1972)に「庭石材料に苦心した.それらの庭石は,只単に,従来の庭園のような美しい庭石というのではなく,八陣というテーマがある関係で,天陣の石,地陣の石,風陣の石,雲陣の石,竜陣の石,虎陣の石,鳥陣の石,蛇陣の石といった,抽象的ながら,テーマを生かす形のものを選定することは,実は難中の難であった.時に和歌山市の井上良輔氏の努力によって,和歌山県沖之島に発見し,施工者岩田判之丞君と共に探してくれて,良材を選定することができた.」との記述があります.
紀伊半島では,東西に延びる中央構造線の南側に日本を代表する低温高圧型変成帯である三波川変成帯が広がっています.図1に地質図を載せています.紀伊半島西部では,海南の少し南まで三波川変成岩類が分布しています.概して北側で変成の程度,すなわち温度・圧力が高く,南側で低くなっています.三波川帯は,変成の程度に基づき,最高変成度の黒雲母帯,それより低い変成度のざくろ石帯,最も変成度の低い緑泥石帯に分帯されます.図1で「ざくろ石帯〜黒雲母帯」としたものは,三波川帯の中で変成度の高い地域を示し,「緑泥石帯」は変成度の低い地域を示しています.
和歌山県有田市にある沖ノ島には,三波川変成岩類の南端部を占める御荷鉾緑色岩類(これらの分布地域を御荷鉾帯といいます)と呼ばれる岩石類が分布しています.御荷鉾緑色岩類のもととなった岩石類は,玄武岩質の海底火山活動によって形成された溶岩,火山砕屑岩,斑れい岩,かんらん岩などで,それらが三波川変成作用を受けて低変成度(緑泥石帯)の変成岩になっています.ここで玄武岩質というのは,SiO2(二酸化珪素)の割合が重量で45〜52%のマグマや火成岩に用いています.
さて,八陣の庭には,61個の景石が用いられています.先に述べましたように,これらはすべて変成岩で,その内訳は,緑色片岩37個,緑色岩1個,青色片岩6個,泥質片岩9個,石英片岩8個となっています.「片岩」は片理をもった変成岩を指し,通常,その前に「緑色」,「白色」,「泥質」,「砂質」,「石英」,「雲母」等の特徴を表す単語を付して用います.片理とは,面状,柱状あるいは針状の結晶(変成鉱物)が一定方向に配列して生ずる面状あるいは線状構造のことです.面状構造に対して用いられることが多く,片理をつくる面(片理面)に沿って剥がれやすい特徴があります.御荷鉾緑色岩類は,北側に分布する三波川変成岩類に比べ変成度が低く,同時に変成鉱物の配列によってつくられる片理も弱い傾向があります.一般に,原岩が溶岩類の場合には変成鉱物の再結晶の程度が低く,片理もほとんど認められませんが,火山砕屑岩の場合には比較的再結晶度も高く,片理が生じやすい傾向があります.沖ノ島では,溶岩や斑れい岩起源ではなく火砕岩起原の比較的片理の発達した岩石類が多くを占めています.図1では,御荷鉾緑色岩類の岩種を区別していませんが,平山・田中(1956)の「海南」図幅では区別してあり,そのことを確認することができます.そのため,八陣の庭の景石の多くが,片理をもった結晶片岩となっています.平山・田中(1956)では,片理が弱いために,緑色片岩に加えて,緑色准片岩,緑色千枚岩という用語も用いられていますが,それぞれを区別する基準が明瞭でないため,ここでは結晶片岩に統一しておくことにします.
八陣の庭の61個の景石には,便宜上,陣ごとに番号が割り振られていますので,図2と表1にそれぞれ景石の配置図と岩石名をあげてあります.個々の景石の岩石名については,すでに岸和田市教育委員会(2018)で報告されていますが,すべての景石を緑色結晶片岩,緑泥片岩,石英片岩の3種にわけているものの識別の基準が曖昧です.また,緑色結晶片岩とされていた蛇陣の3個の景石は正しくは泥質片岩,等々の問題があったため,2018年9月〜10月にかけて岸和田市教育委員会の方々と全ての景石の再調査を行いました.その結果を表1に載せていますので,ここでは表1に基づいて話を進めていきたいと思います.
緑色片岩と緑色岩は,火成岩(火山岩,深成岩など)あるいは火山砕屑岩(火砕岩)起原で,マグマに由来する物質からなるためマグネシウムや鉄などの元素を比較的多く含みます.結果として,緑色の緑閃石,緑簾石,緑泥石などの変成鉱物を生じるため,岩石自体も緑色を呈します(図3).ここで緑色岩は、塊状で片理が発達していないものを指し、御荷鉾緑色岩に多く認められる岩種です。
青色片岩は,これらに加えて青色のアルカリ角閃石を多く含み,暗青色〜青緑色を呈します.アルカリ角閃石は,高圧条件で形成され,三波川変成作用を特徴づける代表的な鉱物といえます(図4).7個の景石に青色片岩が用いられていますが、いずれも緻密で各辺が50cm前後の良く円磨された岩塊です。これら青色片岩は御荷鉾帯には産出しません。私自身が沖ノ島を調査していませんので確かなことは言えませんが、青色片岩は沖ノ島以外から持ち込まれた可能性があるように思います。
泥質片岩は,植物の遺骸に由来する炭質物(石墨)を含み黒色を呈するため,黒色片岩と呼ぶこともあります.また,雲母が多くできることがあり,雲母片岩と呼ばれることもあります(図5).図5ではややわかりにくいですが、黒色の泥質物層と乳白色の石英層が細かく互層して片理を形成しています。
図3 緑色片岩(右から天-1,2,3)
図4 青色片岩(虎-4:中央手前)
図5 泥質片岩(雲陣)
図6 石英片岩(天-4)
図7 緑色岩(大将-1)
石英片岩は,石英層と泥質物あるいは火砕物よりなる層が互層をなすもののうち,石英層に著しく富む片岩で,卓越する無色鉱物である石英を反映してしばしば白っぽくみえます.原岩は,深海底で堆積したチャートあるいは珪質泥岩だと考えられます(図6).
先ほど,八陣の庭の景石の多くが,片理をもった結晶片岩であると申しあげましたが,大将-1の緑色岩はその唯一の例外です.大将-1は,塊状で片理をもちません.緑色岩の原岩は溶岩の破片や火山砕屑物が集まってできた凝灰角礫岩あるいは火山角礫岩と推察されます(図7).御荷鉾帯でよく見られる岩種です。
八陣の庭では,上中下三段の基壇の縁石についても沖ノ島の緑色片岩が用いられており,さまざまな工夫が施されています.重森・重森(1972)に,「古昔の砦の平面古図を参照し,これに近代感覚を加えた創作による地割りを施した」もので,「直線による多岐な屈曲による三重の石垣線で構成した.」と書かれています.さらに,以下のような具体的な記述があります.
「そしてこの多岐に屈曲する直線の交錯は,上中下の三段の高下による立体とし,中央の上段には大将陣の石組みを設け,中段には,北東部の虎陣と,西部の風陣の石組を設け,下段には,北部の地陣,西北部の鳥陣,南部の竜陣,東南部の雲陣,東部の蛇陣,東北部の天陣の石組を作り,東西に多少長い地割りとなった.これらの上中下三段の各段の高さは約三十センチ前後であり,直線の屈曲凹凸の多岐の線は,各段ともその要素をことにし,ときには離れ,ときには接近し,平行線,菱形線,直角線,三角線等々が交錯していて,多様な変化とリズムとを構成し,外側の石垣線上を歩いて,接近したところで中央の石垣に渡り,さらに接近したところで,中央線に達し,白砂紋を一歩も踏むことなくして三周して一覧出来るように考慮した.」
残念ながら,石垣の劣化も進んでおり,文化財保全の観点からも,八陣の庭の内部に入り石垣上を歩くことは禁止されていますが,築造当初,重森氏にこのような思いがあったことは,大変興味深いと思います.
[景石の配置に関する岩石学的考察]
大将-1を除くと,景石には変成鉱物の一定方向の配列によって形成された片理が認められます.ここでは,片理についてもう少し詳しく述べたいと思います.景石の結晶片岩には,しばしば片理と平行に発達する厚さ1 mm〜2 cm程度の石英の層(厚さ1 mm〜2 cm)が幾重にも認められます.泥質片岩では,この石英層は黒色の炭質物を含む泥質層(図5)と,また,緑色片岩では,緑色の火砕物(火山砕屑物)層(図8)と互層しています.
図8 緑色片岩(虎-2)
図9 緑色片岩(虎-7)
御荷鉾帯の結晶片岩類では,この白色層が石英ではなくアルバイトの集合体になっていることが希にあります(斜長石では,カルシウムとナトリウムがさまざまな割合で混じっていますが,ほとんどナトリウムでできている斜長石をアルバイトあるいは曹長石と呼んでいます).また,大変珍しいケースですが,虎-7の緑色片岩の白い部分は方解石でできています(図9).私は,はじめはこの白い部分を他と同じ石英層だと思っていたのですが,ある時,風雨にさらされた石英層の表面がくすんだ灰白色に変化しているのに対して,虎-7(図8)のその部分は鮮やかな白色をしていることに気づきました。調べ直して石英層ではなく方解石層であることがようやくわかりました.大変珍しいケースだと思います.
秩父長瀞渓谷では,「虎岩」と呼ばれる茶色〜暗褐色の層と石英の層が互層するまさに虎の縞模様を彷彿される結晶片岩が有名です.虎-7の景石は,虎の色合いとは異なりますが,淡緑色と白色の縞模様のコントラストが見事に映える結晶片岩だと思います.
八陣の庭では,大将,天,地,風,雲,龍,虎,鳥,蛇のそれぞれの陣の特徴を表現するために,実に巧みに景石の結晶片岩としての特徴(すなわち片理面と褶曲軸の方向から生じる形状)を生かして配置されています.すなわち,大将を初めとする多くの陣では,片理面や褶曲軸を垂直に配置することで景石を際立たせています。61個の景石のうち,片理面が垂直あるいは地面に対して高角度に設置されたもの(図10a, b, c,例えば図8,9)が50個あり,大勢を占めています.一方,片理を寝かせたものもあり、その代表は地の陣です。地の陣では片理面を水平に置き,なだらかな起伏を表現しています(図11).地層が曲がることを褶曲といいます(図10e).八陣の結晶片岩でも褶曲がしばしば認められ,褶曲の軸部を利用した半円筒形をなす景石が19個あります.褶曲の存在は片理面に沿った剥離や崩壊を抑制する傾向があり,また,褶曲面の曲率が最大になる点を結んでできるヒンジ線(褶曲軸)の近傍では,しばしば石英成分が濃集し,とりわけ強固となっています.例えば図6は,図10eとちょうど同じ位置関係に置かれており,中心部は石英成分が濃集し個々の層が厚くなりとりわけ強固となっています.
[景石の修復・保守]
先に述べましたように景石には御荷鉾帯の岩石が用いられています.通常,緑色〜青緑色の石碑や庭石としては三波川変成岩類が用いられることが多く,御荷鉾緑色岩類が使われるのはかなり珍しいことのように思われます.御荷鉾緑色岩類は,溶岩や火砕岩等様々な岩種からなり,変成度が弱く片理の発達も不完全なために原岩の構造が良く残っており,多様性に富んでいます.重森氏が石材を選定するに際して,前述の重森・重森(1972)の「従来の庭園のような美しい庭石というのではなく」,「テーマを生かす形のものを選定する」ためには,御荷鉾緑色岩類が最適だったのかも知れません.
一方,変成度が低く鉱物の再結晶が不完全であることは,岩石自体のもろさを生み,劣化を進行させる可能性があります.片理は一般に硬い層と柔らかい層のくり返し(互層)からなりますが,多くの景石がその片理や褶曲軸を水平面に対して高角度〜垂直にして配置されていますので,雨が降ると上方から雨水は柔らかい層の方に選択的にしみ込みます.しみ込んだ水分が内部に浸透することで,片理面に沿って内部に向かって風化・浸食が進み,割れ目を生じ,劣化が進行します.損傷の激しい景石の多くで,上端部分からの劣化が進んでいますので,景石の劣化が進んだのはこれらのことによる可能性が大きいと考えられます.
景石の現状調査により,劣化損傷が比較的激しい景石を選定し,計9個の景石について,2018年度に補修事業が始まりました。請負先は大阪市にある中村石材工業で,前例のない高度な技術を要する補修に取り組まれ,試行錯誤の末,ノウハウを確立,2022年度に無事修復が完了しました.個々の景石の特性を踏まえ,同質の結晶片岩を適度にすりつぶした細片とエポキシ樹脂の混合物を損傷箇所に充填することで,修復箇所がほとんどわからない程の見事さで補修がなされました.崩壊寸前であった龍-9の補修前後の写真を一例として図12にあげました.亀裂がわからなくなっていることがおわかり頂けるかと思います.一応の補修が完了したことと,劣化の原因が明らかになったことで,今後も継続的に保守がなされると聞いています.今後の経過観察が必要ですが,おそらく数十年規模で耐用年数が引き延ばされたように思います.一般の皆様に,末永く,八陣の庭を観賞して頂くのに十分耐えうる補修事業となったのではないかと思います。
[引用文献]
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https://www.gsj.jp/Map/JP/docs/5man_doc/11/11_088.htm
(2024年10月31日)